環境が変わろうが変われない自分
環境が変わるとメキメキと才覚を伸ばせると漠然と思っている時期があった。
それもつい1年ほど前まで。
しかしそんなことは幻想だと思い知った。
将来に漠然とした不安を抱いた私は去年tech:campに行った。行けば何かが変わると思っていた。しかし計画の甘さもあり漠然とした自分の将来像は脆くも崩れ去った。
tech:campに行った時の反省点はいくつもあるが、私はその時の経験から
- 大金を払ったとしても尻叩き代にはならない
- ぼやっとした計画のままだとぼやっとしたまま終わる
tech:campに行く以前にもお金を払ったものの、せっかく払ったんだからと頑張れるようなエネルギーにはならない経験はいくつかしてきたはずだ。
でも結局5万円を超える大金を支払うまで私はそのことを身にしみて感じることが出来なかった。ちなみにtech:campは1か月だったのに、分割払いにしたため私は半年ほど払い続けていた。
しかしこの経験のおかげで最近お試しで行ったエステには入会せずに済んだ。
というのも知人の紹介で通常料金の半分の価格でエステの体験に行ってきたのだ。
個人的にはかなり良かったものの、料金はやはり高かった。
今の私に継続して月々負担できる金額は多くて1〜2万円だ。しかしそんなちまちました払い方ではエステを1年通っている間にエステ料金を払いきれないことが判明した。
今までの私であれば自分への投資にもなるし入会を決めていたかもしれない。しかし今の私の考えとしては、払った対価を受け取る間に払い切らないものは自分の身に過ぎたものである。
エステの入会を見送ったことには幾つかの理由があるが、やはりこの考え方のおかげで入会せずに済んだ。
本当は入会したかったけれどもお金がなくて後悔することが目に見えていたからいい決断をした。
2つ目のぼやっとした計画のまま、というのは本当にその通りだと思う。
考えるより行動した方が良いことは多々あるが、最後まで考えないのは本当に良くない。
私はそれで成功できるタイプではない。
むしろ考えていないため道を踏み外していることも多々ある。
もちろん踏み外した先に得ることのできる経験もある。
しかし変わりたいと自分が思った時、経験は積んだものの思ったほど変われていないというのは中々精神的にしんどいものだ。
そんなこんなで今の私は自分が環境を変えたところで変わることが出来ないことを知っている。
だからこそ、何かを変えたい今だからこそ今の環境で変わるんだ。
上司と飲みに行くのが嫌いじゃない件
表題の通りだ。
私は上司と飲みに行くのが嫌いではない。
先輩と飲みに行くのも嫌いではない。
むしろ好きかもしれない。
私と上司は親子ほど年が離れている。
だから共通の話なんてあんまり存在しない。
今日の飲み会なんて9割ほど上司の言っていることが分からなかった。
それでも楽しかった。
なんで楽しいのか。
知らない世界を垣間見ることができるからだ。
元来知らない本を読んでいる時に分からない言葉が出てくるとすぐに調べる性質だった。
それが高じてか、仕事をする上で分からないことがあれば調べたりしながらもすぐに聞く。
その言葉を理解するまでしつこく質問を重ねるようにしている。
それはただ私が真面目というわけではなく、ただ単に知識欲を満たしたいだけだと感じることも多々有る。
そういったわけで私は知らないことを知ることが好きだ。
上司の話が9割分からなかろうが、むしろその方が楽しい。
上司が話し上手だということも大きな理由ではあるが。
だからと言って、常に楽しんできたわけではない。
もちろん、上司との飲み会が吐きたいほど嫌な時もあった。
嫌すぎて泣いたこともあった。
理由としては、飲み会で上司にかなりきついことを言われたことがきっかけだった。
言われたことに対してなにくそっと思いはしたが、やはり心は傷ついていた。
毎日上司に言われたことを思い出しては腹を立てていたけれど、今思うと腹を立てることで傷ついた自分の心を慰めていたのかもしれない。
私はこんなことで傷つかない、むしろ反骨精神を育むいい機会にすらなったと、、。
でも近しい先輩に相談した時に自分が傷ついていたことを知った。
その上で上司がどういう経緯・思い出発言に至ったかについて考えることができるようになった。
もちろん自分の出した答えが正解とは限らない。
今でも上司の発言は許すことはできない。
上司の発言の意図について考えを巡らすことで、なんとなく自分の中でケリがついた。
上司を許せない気持ちは変わらない。でもだからなんだというのか。
自分は自分のできることをやり遂げよう。
そう考えると上司のことなんて気にならなくなった。
そうこうしている間に、上司は部下とコミュニケーションをとる機会がかなり少ないことに気がついた。
重要なポジションについていることもあってか、部下に対しては常日頃からかなり厳しい態度の方だ。
そんな方が飲み会でコミュニケーションを取ろうとして失敗したんだろうなと今では思えるようになった。
もちろんだからと言って許しはしないが。
上司の言動に思いを巡らすようになってから、なんとなく彼の地雷が見えてきた。
地雷さえ踏まないように会話をすれば案外面白い人なのかもしれない。
一緒に飲んでいて困る発言をすることもあるが前ほど気にはならないし、一緒に飲んで楽しいと思えるようになった。
飲ミュニケーションというわけではないが、関わることの少ない上司と会話を交わし仲を深めるためには飲み会はいいきっかけであるかもしれない。
地雷を踏まないよう今後も楽しみたい。
決断することの難しさ
21の将来への決断
決断するコトって大変だ。
しんどい。
決断することがずっと苦手だった。今でも苦手かもしれない。
そんな私が21の時に決断したのは、今の会社に入社すること。
正直就職するかどうかも迷いに迷った。留学もしてみたかったのにいつの間にか大学4年生になっていた。
就職活動しなければ後悔すると思い、熱心に就職活動した方だと思う。
でも自分がやりたいこともそこまでわからず、これから先どうしたいかも不透明な毎日だったものだから就職することに決めた。
内定は幾つかもらうことができた。
でも、いざもらうとどの会社に行けばいいのか分からなかった。
贅沢な話だ。
自分がやりたいと思えることはこの会社、自分の将来を考えるとこの会社、社会的身分を考えるとこの会社、、、
いろんな選択肢があった。
その中で結局私が選んだのは業務内容に全く興味はないけれど、働いたことのない自分が身を置くにはこの会社と思えるところだった。
その決断を下すのには数ヶ月かかった。
決め手は自分の特徴として、興味のないことにも興味を持つことができるからだった。
働いてみてその考えは間違いではないことを知った。
ただ、その数ヶ月の間に言われた一言が衝撃的だった。
「迷っている間が一番楽。」
目からウロコとはこのことだった。
どの決断を下すにしろ、決断した後は下した決断を後悔しないように行動していくしかない。
あなたはただ決断の責任を取るのが嫌で逃げているだけなんだと。
胸が痛かった。
正直自惚れていたんだと思う。
今でも21歳のあの時、もっとこうしていればと思うことはある。
でも迷いを飲み込んで下した決断は間違っていないのではと思う。
正直思い描いていた将来の自分とはギャップはある。
今は後悔するのではなく、そのギャップを埋めるために何ができるのかを考え行動している毎日だ。
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整骨院とマッサージ屋の違い
整骨院とマッサージ屋の違いについて、当たり前ではあるが実感したことがある。
整骨院は痛みを感じる部分等を治療してくれる。
マッサージは疲れた体を癒してくれる。
もっと分かりやすく言うと、マッサージ屋では蓄積した疲労を軽減することはできるけれども、疲労が蓄積し痛いと感じるようになった場所を治療するまでには至らない。
完全なる主観であり、万人に当てはまることではないが整骨院一箇所とマッサージ屋2箇所体験した私なりの考えである。
私は腰を痛めてから2年ほど整骨院に通っていた。
その2年で完治することはなかったけれど、悪化することなく少しずつ快方に向かっていた。しかし生活環境の変化から、通っていた整骨院から足が遠のいていった。
しばらくしてやはり体がどうにも調子が悪く、痛みを覚えるようになったのでマッサージ屋に行ってみた。
正直すごく良かった。凝り固まっていた体が嘘のように軽くなった。整骨院での治療のマッサージ20分よりもマッサージ屋の30分の方がよほど効果があるように思えた。正直、整骨院よりもマッサージ屋の方が体は楽になるように思えた。
しかし、私は腰痛持ちである。
マッサージ屋でももちろん腰が痛いことは伝えた上で揉んでもらった。
けれども痛みの根本には何も響かなかった。つまり、痛みを取り除くには至らず、ただただ緊張した体を揉みほぐしただけであった。
その後整骨院に行って気づいた。
痛みの根本原因にダイレクトアタックしている、と。
私の考えでは整骨院の限られた時間では、痛みの直接原因と思しき箇所に治療を加えることしかできないのではないか。
また、どれだけマッサージ屋に痛みの箇所を伝えたとしてもその痛みを取り除くための技術は備わっていないのではないか。
考えてみれば当たり前である。整骨院にいる人は柔道整復師であり、柔道整復師は国家資格の免許を持った人である。きちんと体について学び、一定以上の知識と技術を持った人のみがなれるのだ。
しかもマッサージ屋では「事前に治療を目的としたものではない」という文言が書かれた紙に署名をする必要があった。
自分的な二つの利用の分け方としては、痛みがある場所を明確に認識している時は整骨院、痛みではなく凝り固まった体をほぐしたいと感じた時はマッサージ屋である。なぜならマッサージ屋の方が揉んでもらえる時間が長い事と、リラクゼーションをしている気分なるからである。
人生のメンターが欲しいという話
社会人になるのを目前にして色々と本を読んでいる。その中で本田健の「20代にしておきたい17のこと」という本がある。
なんで17みたいな中途半端な数字やねんというツッコミはおいといて、20代のうちに人生のメンターを探せという文言があった。
ぶっちゃけ内容としては他の本にも書いてあることだけど大事なことを書いている。この人の本で良かったところは、メンターは年々変えていって良いし、それは自然なことである、ということだ。読む前はメンターは良質な人を1人選んで人生の師とすべきだと思い込んでいた。
読了後は確かに色々と人は成長するものであるから変えるのもあって良いんだと思えた。思い込みって怖いな。1人しか選んではいけないと言われたらもっと良いのをと思ってしまうけど、年代によって変えても良いなら気負わずに見つけることが出来る。
この本を読んでからより一層自分が目標とすべきメンターが欲しいなと思ったけど中々難航した。正直な話尊敬する人は?と聞かれてもパッと出てこないもんだから悩む悩む。
尊敬する人でいうと大学の恩師が思い浮かぶけど、メンターになって欲しい人ではない。両親は好きだけどやっぱりメンターとは違う。
そんな感じで去年の9月くらいからずーっとメンターが欲しいと悩み続けてきたけれど、実は私のメンターはすぐ側にいた。
その人とは友人の紹介で知り合った。ちょうど進路のことで深く悩んでいた時期で、相談相手が欲しかった私にとっては最高の人だった。知り合ってから時々連絡を取っては刺激を受けるばかり。私の知らないこと、というよりも私が今まで気にかけてこなかったようなことをしっかりと知っている人だった。
その人が教えてくれる内容が凄く自分にとって凄くタメになって視野が広がった。その人を紹介してもらったとき、友人にかなりディープな自分の考えを曝け出したおかげで出会えたかと思うと勇気を出して本当良かった。
それでも3月に入るまでその人が私にとってのメンターに当たるだなんて思いもしなかった。私はメンターをどこか神格化していたのかもしれない。でも自分にとってのメンターとは何かを考えているうちにふと、その人が私のメンターだと気がついた。きっかけは多分私の知りたい情報を教えてくれた時だ。
知りたい情報と言っても、今の私にはそれすら具体的にはなっていなくて思考のかけらのような状態だった。そんなかけらを掬い上げたかのような内容を私に教えてくれるのを見て、不思議とこの人が今の自分の求めるメンターだと気がついた。
自分の考えを相手に伝えることは難しくて恥ずかしい。でもそこを乗り越えられたから私は人生のメンターと出会うことができた。そして自分が求めているものを徐々に具体化したことで既に私の周りの人と化していたその人がメンターだと気づくことができた。
これから先、そういったことは難しくなるかもしれない。でもだからこそ自分の求めるものに対して妥協せずにいたい。
就職活動における正しい服装について
結論から言おう。就職活動において正しい服装なんてものは存在しない。
金融、メーカー、IT、小売等の業界を受験し、かつ内定をもらったからこそ言える。正しい服装なんてものは存在しない。
就職活動をしているといろんな噂に遭遇する。服装に関してもそうだ。服装自由と描かれている時はスーツを着ていくべきだなんて噂に根拠なんてない。ただその噂が真実に思えてきてしまうのは実際にそのような指定がある企業の説明会に行った際、ほとんど全員がスーツを着ているためだ。
学生が服装自由にも関わらず私服でなくスーツを着ているのには理由がある。スーツを指定された説明会が前後にあったため。もしくはスーツ以外に会社に適していると思われる服装を持っていないため。
以上のような理由から服装自由や私服推奨と言われる説明会であってもスーツを着用している学生がいるわけである。私の場合は会社に着ていくような私服を持っていなかったためスーツで説明会に参加していた。ジーンズやミニスカ、ジャージでも可と書かれていたならば私服で参加することも考えたが、どうしても人の目が怖くスーツを着てしまう。
日本特有というべきか、就職活動における服装で面倒なのは暗黙の了解だ。働く場においてミニスカートや肌が透けるようなシャツはふさわしくない等のふわっとした暗黙の了解が面倒臭い。服装自由と書くならば本気で自由な服装を許してほしいし、人事の人も自由な服装をしてほしい。ただし就職活動に慣れてくると考えも変わった。服装自由というのならば私服でジーンズを着て行ったとしても文句は言えないはずだ、と。
とはいうもののやはりTPOというのは考えなくてはならない気がする。なんとなく。そこで結局私が落ち着いた考え方はこうだ。その会社のお客様を想定し、客層に合わせた格好をする。これが結局一番自然だ。
例えば金融関係を受けた時にはビシッとしたスーツ姿に一番上までシャツのボタンを留めた。スキッパータイプのシャツではなく第一ボタンまでカチッと留まるものを選び、パンツではなくスカートにした。髪の毛はアホ毛が出ないようワックスで止めて真面目な印象を演出した。
金融関係といえば融資など大きなお金を必要とする持つお客様から、窓口に来られる個人のお客様まで幅広い。そのお客様が求めているのは信頼できる人間だと想定した。その想定から私が考え得る真面目な印象を与えることができる姿が上記の格好だ。この時に注意したのはオシャレ要素を全く気にしないことだ。ちょっとしたスーツの着こなしなんてものは排除して、いっそダサくてもいいから真面目で無骨とも言える印象を追求した。私が受験したのは信用金庫だったので、窓口にいるお姉さん方の格好も参考にした。
私は最終的には受験していた金融機関から内定を受けることができたが、私のお客様を想定した格好が内定の一因になったのではと考える。
ちなみにメーカーの営業職を受けた時は、金融の時よりも活発に動けることをイメージして化粧を少し明るめにした。営業先が官公庁であることを配慮し、それ以外の部分に関してはほぼ金融と同じにしてある。
ITを受けた際は服装自由とあったので、周りがどれだけスーツを着用しようとも私服で臨んだ。私が受験したの職ではエンジニアになる可能性もあったからだ。
以上の考え方に基づいた私の服装は社会人の方から見ると間違っていると思われるかもしれない。ただし、就職活動においての正解は受験する会社の人事と役員の方しか知らないものだ。A社で通用するノウハウがB社で通用するとは限らない。だからこそ受験する企業のお客様を想定した格好というのはある意味普遍的でわかり易い。もし面接でどうしてその格好を選んだのですかと尋ねられても答えられる。
就職活動で服装に困った時は、受ける企業のお客様を想定した格好をする。この考えを頭の片隅において、いろいろな情報を参考にしながら就職活動に臨んでほしい。
すれば良かったのに
「すれば良かったのに」って誰にでも言えることだと思うし実際よく言われる。
「よく挑戦したね」って誰にでも言えることなのに言う人は少ない気がする。少なくとも私の周りにそう言ってくれる人はいない。
別に自分のやったことを褒めて欲しいわけじゃない。でも非難されたくもない。もちろん何か悪いこと、人に迷惑をかけたのなら非難されてしかるべきだ。
でも、すごく小さなことにも「すれば良かったのに」「私に相談すれば答えてあげたのに」って言われるのは正直しんどい。
もしその人が全てのことに対して正解を持っていれば話は別だ。でも生活している上で正解があることなんて少ない。最悪な選択なんて誰もしたくなんてなくて、ベストな選択を求めてやっとベターな選択ができるような現状で。
それでも今できる判断で下した私にとってのベストな選択に対して毎回「すれば良かったのに」って簡単に言わないでほしい。
「すれば良かったのに」とは言わずに、「次はこうしようね」と言ってほしい。
そして私は誰かの選択に対して「よく挑戦したね」と言える人になりたい。せめても「次はこうしようね」や「どうしてそうしたの」と言える人になりたい。
それを実践していると「大げさだね」なんて言われることもあるけれど、その内きっと自然に私の口から出るようになる。その時を信じて今は意識的に言葉を紡ぐしかないな。
私は自分を変えることで相手が変わってくれることを望んでいるわけではない。もちろん変わってくれればいいとは思うけど。そんな風に考えるのは、自分が変われば相手は変わるっ聞いたことがあるからだ。でも正直なところ変わってくれる相手もいるけど変わってくれない相手だってもちろんいる。
じゃあ意味ってあんまりないかなって考えたこともあるけど意味はある。自分の容量が広くなるのだ。相手を許容できるとでも言えばいいんだろうか。あんまり相手の言動について気にならなくなる。私の場合、自分が出来ていないことが後ろめたくて嫌なんだと思う。だから相手が自分が後ろめたく思っていることをしてくると自分が後ろめたい気持ちになってしまう。つまり自分のことを許せないという状況になるわけだけど、その感情をうまく処理できなくて、相手に対してムカつくという感情を抱いていることがほとんどだ。
だから私にとって自分を変えるということは、自分で自分を受け入れられる、許すことのできる存在にするということだ。自分を許せるようになると余裕が生まれて自分を客観視できるようになる。客観視できるようになると自分の他の面が気になってきて改善しようとする。そうするともっと自分のことが許せて自分のことを好きになるといういいループに入ることができる。
ちなみに教職で習ったことだけど、いじめをする人に自己肯定感の強い人は少ないそうだ。どこか自分に引け目があったり嫌いだったりしてそれを相手にぶつけている。それを聞いた時びっくりした。いじめって強者が弱者を虐げるといったイメージだったから。
自己肯定感の低さがいじめにつながるならば、教育の現場において自己肯定感を高めるような教育をできるといいなと思ったと同時に、自分自身も似たようなところがあるんじゃないかと思った。相手を傷つけてしまう時は自分で自分のことが嫌な時があるのではと。そう思ってからは自分を変えることが苦ではなくなってきた。
これから先、心の余裕がなくなることも沢山あると思う。どうしても感情を相手にぶつけてしまいたい時もあると思うが、そんなことをする自分を自分が受け入れられるのか自問することで防ぎたい。