みずいろのぶん

自分の中の情報や考えのアウトプットと文章力の向上を目的にブログを書いています。

不安に押しつぶされる遊び

今週のお題「何して遊んだ?」

 

小学校の頃によくしていた遊びはケイドロだった。

ケイドロといえば泥棒チームと警察チームに分かれて泥棒が逃げ切るか警察が捕まえるかという単純な遊びだ。今はもう覚えていないけど、参加者全員が片足を出して歌うようにチームを分けていたことを覚えている。

小学生の時の私は特に足が速いわけではない至って普通の子供だった。だから遊びの中でヒーローになることはできないけれど、弱すぎて楽しめないというわけでもなかった。

ただそんな私でもこのゲームの際にはいつも不安を抱えていた。もしかしたら私を一人残して次のゲームが始まってしまうのではないか。そんなことを考えながらゲームに参加して、こらえきれずに自分から相手領地を見に行くような子供だった。

今思えば、そこをぐっとこらえて我慢すればケイドロの神になれたかもしれない。でもその時の私はいつも一人残されることの不安からできなかった。

しかし私が一人置いて行かれるような経験はそのゲームにおいてしたことがない。その他のゲームにおいてもない。

なのに不思議と常に不安を感じていた。

その不安感は遊んでいる時だけじゃなくて、例えば普段の友達との会話でも感じていた。

私にとって親友と思える子にとって私は親友ではなかった。「ずっとも」とか「ニコイチ」とか親友を表す言葉が多くあって、私の周りではそういう関係に見える人が多くいた。

でも私にとってのニコイチもずっともも親友もいなかった。周りから見ると私の人間関係の築き方は浅く広くだったそうだ。そしてそれが羨ましいと。

でも私は深い関係の人が欲しかった。親友が欲しかった。

中学生になっても私の人付き合いの仕方はあまり変わらなかったように思う。途中まで親友になり得そうな人はいたのだけれど、周りからその関係についておかしいと言われて意識してしまって私から離れてしまった。

ギャル系の子とも、部活命の子とも、控えめな子とも仲良くできた。

今はだいぶ落ち着いていて、親友って言葉にしなくても思える相手ができて、その相手も私のことを親友と思ってくれている。

でも高校の頃は、その子が他に親友がいることを受け入れられない部分があった。私にはそんな相手他にはいないのに、と。

でも大学に入ってだんだんと受け入れられるようになった。ある意味視野が広がったのかもしれない。

例え長い間連絡が取れなくても、次会った時にブランクなんてないかのように会話ができる相手が一人でもいることに感謝できるようになった。

大学に入ってから、ケイドロの時の不安を忘れずに向き合うようになったからそう思えるようになったのかな。

前にもし違う大学に行っていたらという記事を書いたけれども、学歴は良くなったとしても今の自分には出会えなかったと思う。

これからも不安を押しやらずに、時間がかかってもいいから向き合っていきたい。