みずいろのぶん

自分の中の情報や考えのアウトプットと文章力の向上を目的にブログを書いています。

すれば良かったのに

「すれば良かったのに」って誰にでも言えることだと思うし実際よく言われる。

「よく挑戦したね」って誰にでも言えることなのに言う人は少ない気がする。少なくとも私の周りにそう言ってくれる人はいない。

別に自分のやったことを褒めて欲しいわけじゃない。でも非難されたくもない。もちろん何か悪いこと、人に迷惑をかけたのなら非難されてしかるべきだ。

でも、すごく小さなことにも「すれば良かったのに」「私に相談すれば答えてあげたのに」って言われるのは正直しんどい。

もしその人が全てのことに対して正解を持っていれば話は別だ。でも生活している上で正解があることなんて少ない。最悪な選択なんて誰もしたくなんてなくて、ベストな選択を求めてやっとベターな選択ができるような現状で。

それでも今できる判断で下した私にとってのベストな選択に対して毎回「すれば良かったのに」って簡単に言わないでほしい。

「すれば良かったのに」とは言わずに、「次はこうしようね」と言ってほしい。

そして私は誰かの選択に対して「よく挑戦したね」と言える人になりたい。せめても「次はこうしようね」や「どうしてそうしたの」と言える人になりたい。

それを実践していると「大げさだね」なんて言われることもあるけれど、その内きっと自然に私の口から出るようになる。その時を信じて今は意識的に言葉を紡ぐしかないな。

私は自分を変えることで相手が変わってくれることを望んでいるわけではない。もちろん変わってくれればいいとは思うけど。そんな風に考えるのは、自分が変われば相手は変わるっ聞いたことがあるからだ。でも正直なところ変わってくれる相手もいるけど変わってくれない相手だってもちろんいる。

じゃあ意味ってあんまりないかなって考えたこともあるけど意味はある。自分の容量が広くなるのだ。相手を許容できるとでも言えばいいんだろうか。あんまり相手の言動について気にならなくなる。私の場合、自分が出来ていないことが後ろめたくて嫌なんだと思う。だから相手が自分が後ろめたく思っていることをしてくると自分が後ろめたい気持ちになってしまう。つまり自分のことを許せないという状況になるわけだけど、その感情をうまく処理できなくて、相手に対してムカつくという感情を抱いていることがほとんどだ。

だから私にとって自分を変えるということは、自分で自分を受け入れられる、許すことのできる存在にするということだ。自分を許せるようになると余裕が生まれて自分を客観視できるようになる。客観視できるようになると自分の他の面が気になってきて改善しようとする。そうするともっと自分のことが許せて自分のことを好きになるといういいループに入ることができる。

ちなみに教職で習ったことだけど、いじめをする人に自己肯定感の強い人は少ないそうだ。どこか自分に引け目があったり嫌いだったりしてそれを相手にぶつけている。それを聞いた時びっくりした。いじめって強者が弱者を虐げるといったイメージだったから。

自己肯定感の低さがいじめにつながるならば、教育の現場において自己肯定感を高めるような教育をできるといいなと思ったと同時に、自分自身も似たようなところがあるんじゃないかと思った。相手を傷つけてしまう時は自分で自分のことが嫌な時があるのではと。そう思ってからは自分を変えることが苦ではなくなってきた。

 これから先、心の余裕がなくなることも沢山あると思う。どうしても感情を相手にぶつけてしまいたい時もあると思うが、そんなことをする自分を自分が受け入れられるのか自問することで防ぎたい。